自主制作ながらアルバムを発売し、演奏活動を始めてから10年が経とうとしていた2012年6月。私は二つの考えの狭間に揺れていた。一つは活動10周年を迎える9月に、ささやかでもイベントを開くこと。
もう一つは自分の音楽を見つめなおすため、対外的な活動を辞めてしまうこと。
頭の中でじわじわと、後者が幅を利かせ始めた頃、知人から一人のインテリアデザイナーを紹介された。何やら画期的なスピーカーを開発されたそうで、それを試させてもらうことに。
失礼ながら眉唾だが、物は試しと初めは自分のCDアルバムで。それから日を改めてサロッドで。最終的に導入を決めたのは、屋外ライブで存分に使わせていただいてからだった。
演奏家が最高に腕を磨いたとしても、表現はその楽器の能力を越えられない。そして最高の材料を最高の職人が楽器にしたとしても、アンプやスピーカーがその表現を伝えきれなければ歯がゆいばかりだ。
辞めてしまおうかと考えたのは、この世界のどんな音響機材も納得できる代物ではないと絶望したからに他ならない。
しかし、このスピーカーは私を開眼させてくれた。大きさはアフリカのトーキングドラム程度、小脇に抱えられるほどだ。
そのドラムも、言葉となって山向こうの人々と会話する為に使われるという。しっかり鳴りさえすれば、発音体の大きさなど問題ではないのだ。初めて体験した者は、その楠材をろくろで形成した簡素な美しさと、粒の立つ奥行きのある音像に感動する。
ある時、友人のコラ(アフリカのハープ)奏者の音響に使ってみた。
彼は音が出ているか私に尋ね、それに応えて音量を上げた。
それでも彼はスピーカーから音が出ていないと言い、私は更に音量を上げた。
3度そうしたやりとりがあって、一度アンプを切った。
『あっ、音出てたんだね!』
そう、あまりに再現性が高いので、奏者自身も生音とスピーカーの音の区別がつかなかったのだ。
100名規模の会場でのライブ中に、スピーカー近くでも会話が成り立つのは、
音量や音圧ではなく、正確な音像が遠くまで届くということ。
ライブ好きもオーディオ好きも、未経験では済まされない。
弦楽士 コウサカワタル